小林高四郎『イスタンブールの夜 外交余憤録』と外務省革新派

小林高四郎の『イスタンブールの夜 外交余憤録』を前にブログで紹介したが、この小林の書籍を参考文献にしている新書がある。戸部良一著『外務省革新派 世界新秩序の幻影』(中公新書)。その288頁(革新派の戦後)に、小林は匿名にしていた名前が明らかにされている。その部分を引用する。

「戦時下で革新派と目された大使はトルコの栗原正だけである。その駐トルコ大使館では、異常な事態が起きていた。同じ革新派の先鋭分子であった二等書記官の青木盛夫がことごとに大使といがみ合い、大使館には陰謀と誹謗中傷が渦巻いていた。青木はかつて栗原東亜局長の下でも部下であったはずだが、無能な栗原が大使になれるのは自分たち革新派がバックアップしてやったからだと嘯き、二等書記官でありながら大使館内では大使以上の勢力を振るったという。粘着質の青木は陰では、「青大将」と呼ばれ、ベルリンなど他の在外公館では「アンカラの大王」というあだ名をつけられていたとされる。・・・」

小林高四郎は傍流の調査官出身の外交官で、青木盛夫はエリート外交官で、しかも戦前霞ヶ関で幅をきかせていた革新派外交官であった。小林の不満が戦後、本の形で爆発したのであろう。外務省も陸軍将校と同じく下克上が起きていた。

小林は外務省を戦後辞めて学者の道を歩み、モンゴル史の専門家として名を知られるようになった。学者の彼としては、どういう気持ちであったのか、その後、『イスタンブールの夜』は自ら回収して市場に出回らないようにした。若気の至りという学者の良心を持ち合わせていたのであろう。それに比べると、「青大将」は戦後も外交官として出世している。

ここに登場する青木盛夫書記官は、戦後外務省でキャリア外交官として出世し、特命全権大使ジュネーブ国連政府代表部や南ベトナム)となって退官している。彼の息子も外交官となり、ペルー大使館人質事件で一躍有名になった青木盛久大使がその人である。

戦前の陸軍将校の下克上は、敗戦により陸軍の解体によりなくなった。外務省革新派官僚(外交官)たちは戦後も生き残り、大使や総領事となって出世した。外務省のキャリア外交官たちが持っていた、鼻持ちならないエリート意識は、単に外交官であるという意識だけではなく、革新派官僚が持っていた国家意識を引きずっていた。