近東の風雲児 (上・中・下) ムスタファ・ケマル

大阪朝日新聞 1922.9.24-1922.9.28(大正11)に、トルコが欧州列強に対して戦闘を続けていたとき、その指導者であるムスタファ・ケマルについての報道がある。当時の日本はトルコから遠くかったが、ムスタファ・ケマルの動向に注目していた。次のような記事が掲載されている。
近東の風雲児(上・中・下)
(上)
大英国の直接間接の大援助の許に亜細亜土耳其を侵略しつつあった希臘軍の総司令部が、不意打に僅僅二万の騎兵の包囲を受けて、総司令官トリクービス元帥を始めとして師団長も旅団長も乃至各連隊長も根こそぎ亜細亜人の手に俘虜となったと云う飛報が伝わった。之が為に希臘内閣は総辞職をした。君府駐剳の列強代表者は希臘軍に代って亜細亜土耳其軍に向って休戦を申込む。流石の大英国がスッカリ弱りきって了った。近東に空前の大渦巻を惹起したのは実に此の土耳其軍の一挙であった。一掴みの亜細亜土耳其軍を微塵にするのは茶飯事ではあろうが、若し英国にして此政策を採れば、忽ちにして三億万の回々教徒と蜂起するに極って居る。そうなると印度がアブない。これが英国の弱点であり、英国のヂレンマである。ミスミス露独は勿論のこと仏蘭西までが手を拍って快哉を唱えて居るのを目撃しながら英国政府は此事変に関して、馬耳東風を粧わねばならぬ苦しい立場に陥ったのである。
斯くの如き痛快極まる大偉業を決行したものは誰かと問わばこれ即ち本篇の主人公ムスタファ・ケマル・パシャ其人である。
 ケマル・パシャは嚮には土耳其国民党を組織し、東洋流の極端なる専制国に民主主義を唱道して、帝政を破壊した総大将である。千九百十四年の暮より翌年の春にかけて独逸が破竹の勢を以て将に天下を蹂躪すべき勢を示し、世人は悉く独逸の必勝を予期して居った場合に、オットマン帝国内に於てタッタ一人、滔々千万言の意見を上奏して、土耳其の独逸に加担するを阻止せしめんとした熱血男子である。其後連合軍を相手に廻してダーダネルス半島より英吉利遠征軍を撃退したのも此の男である。爾来軍人として将たまた政治家として当今欧亜の第一人として名声嘖々たるもの即ち此ムスタファ・ケマルである。
青年土耳其人の間ではケマルは鉄血将軍と称せられて居る。土耳其のビスマルクの通称がある。軍人として将たまた政治家として乃至近東政界舞台の立役者としてバルカン半島空前絶後の大傑物として欧洲各国人の間に謳歌せられて居る。而して彼は今年漸く日本流の算え歳で四十一の厄年の男である。
 今を去る四十年前、希臘サロニカの一税官吏は漸く当歳の一男児と三つ違いの幼女とうら若い未亡人を後に残して病魔の手に疆れた。僅かばかりの遺産と親族の扶助によって二人の孤児は義務教育丈は済ましたが可憐の未亡人は幼童の将来を考え自分の腕一つでは到底何事も為し得ないことを自覚して、男の児を回回教の僧侶にしようと考えたのである。然るに幼童はドウしても自分は軍人となると主張し誰が何と説諭しても頑として応じない。其内に幼童自身は陸軍幼年学校の入学試験に応募し、彼は美事に合格して了ったのである。
彼は年少者ながら洵に数学の天才であった。幼年学校の数学の教師に特別に可愛がられ、一税吏の孤児ながらも彼が成年に達する際には、此数学の先生自身が彼の仮親となってムスタファ・ケマル命名を為し、彼は茲に初めて一人前の人間となったのである。
ケマルはモナスチールの士官学校も優秀なる成績を以て卒業し、続いて君府の陸軍大学に入学を許された。
 当時の土耳其帝国はアブダル・ハミッドの治世であり、東洋一流の絶対独裁国体を保持し、極端なる専制政治が行われて居ったのである。然し乍らその裏面には幽かに革命の曙光が認められた。警視庁では、仏国革命に関する書物は売買印刷を厳禁し無政府主義の露国より伝流するを非常に懼れて居ったのにも拘らず、土耳其の青年の間には自由民権論が密かに囁かれた。不思議なることは軍律最も峻烈なる陸軍大学乃至軍医学校学生の間に最も熾んに民主主義が唱道せられたのである。彼等学生の間には隠然自由主義と改進主義の二流があって、ケマルは自由党の牛耳を把って居った。
ケマルは陸軍大学も優等で卒業して、隊附の中尉となった。其頃彼は君府の下宿屋の一室から通勤して居ったが、常に彼の部屋は民主主義者の秘密集会所であった。

(中)

当時青年土耳其人の間には、十九世紀に於けるトルコ第一流の文士の手に成る『祖国』と題する劇本が盛に愛読された。戯曲の脚色は泰西諸邦の立憲政体を謳歌して猛烈に独裁君主政治を攻撃したものである。内務省は『祖国』の出版を厳禁し、警視庁は鋭意あらゆる手を尽して『祖国』の回収に努め悉く之を焼却したにも不拘、依然として『祖国』の秘密出版がオットマン帝国到処に行われた。勿論ケマル中尉一味の徒は悉く『祖国』の所持者であり『祖国』の内容を議題として常に熱弁を闘わして居ったのである。果せる哉、ケマル中尉の集会所は一夜警官の不意討を受け同志十数名は一網打尽警視庁の留置所に収監された。然しケマル中尉丈は参謀本部の隠然の斡旋があったが為に有耶無耶の間に帰宅を許されたが、陸軍省は終に彼を亜細亜土耳其のダマスクス騎兵連隊附に任命し、体の良い国外追放の行政処分に出たのである。
 ケマルは大学出身の若い将校中のチャキチャキである。向う見ずの鼻息の荒さ、彼は着任直に此処に自由党支部を創設して盛に民主主義の宣伝に努めた。彼は忽ち青年の崇拝の的となり、地方第一人の威望を恣にした。然し彼も亦さる者である、直にダマスクスの様な片田舎で何をやってもダメであることと、回回教徒の革進運動は欧羅巴土耳其を舞台とせねば到底モノにならないことを看破した。
爰に至ってケマル中尉は大胆にもダマスクスの騎兵連隊を無断欠勤をしたまま、窃に埃及のアレクサンドリヤに逃亡し、此地で巧に変装して運よく本国のサロニカに潜り込んだ。彼は約四箇月の間不絶神出鬼没の行動を採ってサロニカを中心に熱烈なる革命運動を試みて居ったが、警視庁が薄々彼の所在を嚊付けた気配を見て、彼は再びシリヤに脱出した。
ケマル中尉に対して軍法会議が云云されて居る間に、偶陸軍大臣の更迭があり、また如何なる手段を講じた結果かは判らないが、彼は突然サロニカ第三軍司令部付の参謀に任命せられたのである。
彼が従来の自由党と進歩党とを提携せしめて合同進歩党を組織し、今日の国民党の基礎を造ったのは即ち第三軍司令部の参謀時代の出来事である。苟くも軍人であり、司令部の参謀でありながら公々然と如此政治的運動がよく出来たものであると疑惑に堪えないのであるが、今日その当時を回顧すればオットマン大帝国の礎は其頃既に腐朽して居ったのである。また第三軍司令官自身が有力なる革進運動の後援者であったから株は既に熟しキッて居り只管落ちるのを待構えて居った時勢であった。
 果せる哉千九百七年、大英国は従来の対露政策を一変して、英露協商条約を締結し、これ迄公然の秘密として財力兵力を以て大に庇護して居った土耳其を弊覆の如くに棄てた。而してこれが動機となって翌年の青年土耳其の革命暴動となり、終に皇室をして代議政体を認めした大なる出来事が発生した。勿論この大騒動を操ったものはムスタファ・ケマルその人であったが、表面では民主運動の総大将は第三軍司令官マームード・ゼブケト・パシャとなって居った。
 次で帝政復古の騒乱が起ったがこれは全く失敗に終り、皇帝自身が民党の為に投獄され、永えに独裁君主政体は土耳其の歴史から拭い去られる様な悲劇に終焉を結んだのである。
摺った揉んだの政治的騒擾の後、ケマルの政敵であり帝政派の首領であるエンヴェルは多数党に推されて、王位に即いた。之が結果としてケマルはトリポリに追い遣られ、その後更に墺国公使館附武官として維納駐剳を命ぜられた。然し千九百十四年土耳其が頗る連合軍に刃向うた際には、彼は憤然として墺国公使館を去って君府に帰って来た。彼は陸軍官憲は勿論のこと要路の先輩に向って、土耳其の国情は戦争に参加することを許さず、祖国の興廃此一挙にあることを熱弁を振って遊説したのであるが、当時は排英熱の極度に達して居る際であったから、上下挙って誰一人彼に耳を仮すものは無かった。
 其内に英国の遠征軍はダーダネルスに向って海陸連合軍を以て一挙にしてコンスタンチノーブルに進入せんことを企てた。爰に至って土耳其政府は俄にケマルを師団長に昇級せしめ第十九師団を率いて連合軍に対抗せしめた。世人の風評する処によれば当時エンヴェル・パシャは内心窃にケマルの失敗と彼の戦死を予期して居ったとのことである。
ケマル将軍は独墺参謀本部の識者の間に、既に定評あった如く、戦術策戦上の非凡の手腕を有って居った。露国の戦術家も、泰平の夢に慣れた英国の将校などは到底彼の敵では無いが、問題は兵器と日数の点であると揚言して居った。果して英国は此遠征に於て、海軍は数隻の超弩級戦艦を亡い、陸軍は始から終まで失敗に失敗を重ね英国戦史の上に拭うべからざる大汚濁を残してスゴスゴ引揚げた。当時独逸に於けるケマルの人気はタイしたものであった。敵ながら英国も密かに此偉人を歎賞して居ったのである。

(下)

然るに土耳其自身に於てはダーダネルスより連合軍を美事に撃退した戦捷に就ては一切新聞に書かさ無かったがやがて事変は口から口へと言い伝えられ、二年後即ち千九百十七年の春から土耳其文字の新聞は勿論のこと回々教徒の愛読する亜剌比亜文字の新聞雑誌は一斉にケマル将軍の偉功を連載し始め僅に旬日を出でずして彼は三億の回々教徒の崇拝の的となった。
 間も無く、政府はケマルを第十六軍団附に任命し総司令独人ファルケンハイン大将に隷属して露国の国境に向わしめた。当時軍司令官の真意は専ら英軍の手からバグダッドを奪略するにあった。ケマルは此点に於て軍司令官と意見を異にした。終に両者の間に大衝突を起してケマルは千九百十七年突然アレツボに帰って来て、此処から九月三十日附の彼の心血を注いだ有名なる意見書を公表した、時恰も独軍は西に東に乃至印度洋に於て連戦連勝将に沖天の勢を示して居った一刹那であったから。ケマル崇拝者と雖も殆ど彼の言に耳を傾けなかったのは無理もなかったかも知れぬ。
 果せる哉時の土耳其政府は、此意見を握り潰したのみならず、ケマルに転勤を命じて当時独逸の人質の形で伯林に滞在中の土耳其皇太子附武官に移した。
ケマルが伯林に着任すると間も無く、彼の予言は的中して土耳其軍はパレスタイン方面に於て形勢弥よ不利となって来た。政府は俄に四、七、八の三軍団を増派してファルケンハイン軍を救援せしめたが既に手遅れとなり、英軍の司令官アレンビー将軍の率いる印度軍は早くもエルサレムを占領して新月国旗に代って竿頭高くユニオン・ジャックが翻って居った。同時に君府の政府は、英国司令官に向って休戦を電請して来たのである。
敗報一度伯林に伝わるやケマルは急いで帰国した。然し漸く母国に達してコンスタンチノーブルの現状を一瞥した時は、彼は暫しは憮然として熱涙の滂沱たるを覚えた。実際に彼はかくまでになって居るとは想像せなかったのである。君府は朝野共に混沌たるものであった。合同進歩党は全滅して、反対党の首領フェリド・パシャが大統領の地位を占めて、表面丈は民主政体を標榜して居るが、議会は閉会したままである。国には民心を収めて居る者が無い。従って国是も無ければ輿論も無い。国民は全く五里霧中に彷徨して歩むべき方向を知らなかった。
 英軍は既に君府のペラ並にガラダ地方を占領し、仏軍はスタンブールに陣営を構え、伊軍は亜細亜土耳其の沿岸を擁しボスフォラスには連合軍艦隊が堂々と頑張って居る。加うるに鉄道は仏蘭西が占領して運転を管理する。亜細亜土耳其の鉄道は全部英軍が掌握して地中海沿岸、コーカサスペルシャ。メソポタミヤ鉄道と連絡軍事輸送に使用して居る。尚又ムドロス休戦条約の条件として、トルコ帝国陸軍は解散を命ぜられ、海軍は軍艦を悉くコンスタンチノープルに封鎖されて居る。見るもの聞くもの悉く涙の種ならざるは無くムスタファ・ケマルは只呆然たるのみであった。
先の英露協商は自然消滅と見做して大英国は更に英希協商なるものを締結して、希臘を手先に使って専ら土耳其を苛めることに努力したかかる状況を目撃したケマルは忽ち母国の土を一蹴して俄に小亜細亜に逃げ出した。土耳其政府は後でこれはシマッたと心附いたし君府に駐剳する連合軍の代表者も取り返しの附かぬ失策をしたことを自覚して急にケマルを召喚したが、彼は断じて帰国せないのみならず、政府の命令に対して返辞もせない。之が為に政府はムスタファ・ケマル将軍を軍籍から除名した。抑もこれが土耳其政府の大失敗であり同時に今回の大事変の端緒であったのである。
蓋しケマルは小亜細亜から各地に離散した合同進歩党の同志に檄を飛ばし、遂に今日の土耳其国民党を組織し、彼の名声を慕うて身辺に蝟集する数万の軍人の後援を得てケマルは天下に向って小亜細亜の独立を宣言し、欧羅巴土耳其のフェリド政府に対峙したのである
 此行動を見て自己の目的遂行の為に大に邪魔になることを感じた英国は、希臘を唆かしてスミルナ占領をさせた、之を見たケマルは希臘の行動は休戦条約違反なりと宣言し、武力を以て対抗したのみならず、その結果が希臘軍の全滅となり、六万の欧洲兵は亜細亜人の俘虜となり、英国の面目が丸潰れとなったのである
斯して欧羅巴人は七百万前韃靼人の足下に踏付けられた様な悲惨なる歴史を繰返して居るのである。雨か風か、稀代の風雲児ケマルを向うに廻し連合国はどうして此のデレンマを切抜けるか、お馴染の近東劇は之からが着物である」

ムスタファ・ケマルは大統領就任後の報道が日本では多いが、欧州列強に対して、独立戦争を戦う彼に対して、アジア人である日本人として興味が強かったのであろう。