トルコ共和国とウイグル人

トルコのエルドアン首相が新疆での事件をジェノサイド(大量虐殺)だと批難した。同じイスラム教徒が殺害されているこに怒ったのであろう。エルドアン首相が率いる与党AKPはイスラム色の強い政党である。エルドアン首相は中東和平でもイスラエルを非難するなど,弱者の立場にあるイスラム教徒に対して同情的である。

エルドアン首相の発言を聞くと,トルコの政治家がトルコ系のウイグル人中央アジアコーカサスのトルコ系諸民族に対して,いつでも関心があるように思えてしまうが,実際はそうではなかった。トルコ共和国建国の父アタテュルクは,欧州列強から侵略を受けた経験から,「内に平和,外に平和」をスローガンに掲げてトルコの独立に腐心した。彼の後継者イノニュ大統領もその方針を継続し,中央アジアのトルコ民族とトルコ人が連帯するような汎トルコ主義運動を弾圧した。イノニュ時代の1950年代までトルコは中央アジアのトルコ系諸民族を亡命者としての受入れに否定的であった。

1950年代,イノニュ政権からメンデレス政権に変わると,東西冷戦期にあったメンデレス首相は,ソ連など共産圏の抑圧下に生活するトルコ系諸民族に対して同情的であった。それまで亡命受け入れに消極的で,そのためパキスタンに長年滞在を余儀なくされていたウイグル人やカザフ人の避難民をメンデレス首相はトルコ受け入れを決定した。偶然であろうか,エルドアン首相がトルコにイスラム色を強めている政権であるが,メンデレス政権もイノニュ時代の世俗主義からイスラムへの回帰を認めている。1960年,メンデル首相が軍事クーデターで処刑されると,軍事政権は中央アジアコーカサスから再度多くの避難民を受け入れることはしなかった。

トルコには,1950年代のメンデレス政権時代にトルコに亡命したウイグル人やカザフ人とその家族の子孫がイスタンブルを中心に数万人が生活している。とくに,イスタンブルのゼイティンブルヌ地区に集中的に定住している。

トルコ共和国世俗主義(「セキュラリズム」)を推進した政治家や軍人たちはアナトリア出身よりもボスニアマケドニアなど東欧出身者たちが多かった。イスタンブル在住のビジネスマン,ジャーナリストも同様であった。このようなこともあってか,トルコ人中央アジアコーカサスへの関心が一般的に低かった。1991年のソ連崩壊による中央アジア諸国独立でも当初はトルコ人は関心が高かったが,いまはそれほどではない。

トルコ人は歴史的にモンゴル高原から移動を開始し,中央アジアそしてアナトリアや東欧へと移動し定住してきた。そして,現地の人々と混血してきた。このこともあるのかもしれないが,トルコ人EU加盟という西方を目指している。他方,中央アジアなどトルコ系諸民族と東方との連帯を目指すという思考はどうもあまりなかった。

こう考えると,エルドアン首相の発言は,イスラム教徒の連帯を目指す与党AKPなどトルコのイスラム勢力が東方回帰を目指す,新しい潮流の始まりかもしれない。