アルタイ学者ポリワーノフの粛清

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言語学者エフゲニー・ドミトリエヴィッチ・ポリワーノフの写真,逮捕前と逮捕後の写真。

スターリンによる1937−1938年の粛清は,ソ連の学問にとり大きな損失を生じさせている。さまざまな学問分野での一流の研究者や先覚者を失った。ポリワーノフ(1891−1938年)もそのような学者の一人であった。ポリワーノフは数十の言語に通暁していたと言われている言語学者であった。彼は1914(大正3)年と1915(大正4)年に日本に短期留学し,日本の方言を研究している。ペテルブルグ大学で日本語研究を続けた。

ロシア出身の言語学者、ニコラス・ポッペの回想録によれば、ポリワーノフの講義は非常に優れたものだったが、その風体は「スラム街から来た浮浪者」のようだったとのことである。アルコール中毒者、麻薬常習者であり、泥酔して女子学生の部屋に侵入するなど不祥事が絶えなかった。片腕がなかったが、泥酔して市電のプラットホームに倒れた時に電車に轢かれたためである。言語の天才であった彼は,酒乱であるなど生活態度でも破天荒であったようだ。

1917年のロシア革命後,ソ連体制下でも言語の歴史的発展について独創的な論文を数多く執筆した。しかし,ソ連当局の意図には迎合しなかったので,ウズベキスタンタシケントに異動させられた。中央アジアにおいて,ポリワーノフはトルクメン語など中央アジアのトルコ系諸語の言語研究でパイオニアとなっている。ポリワーノフは言語の天才であり,言語研究において独創的であった。

1937年に「日本のスパイ容疑」で逮捕され投獄された。1938年1月25日,ポリワーノフはモスクワの刑務所で獄死した。彼もスターリンによる粛清の犠牲者であった。日本語研究者でスタートし,中央アジアのトルコ系言語の研究で終焉を迎えさせられた。粛清された彼が残したトルクメン語の研究論文は今でも優れた業績であるが,日本では彼の学問を理解し評価できる人はほとんどいない。

ポリワーノフが日本のスパイとして告発され,言語研究者がスターリンの粛清によって殺された。スターリンの狂気は,言語研究者を反革命としててるレッテルを貼った。粛清されていく研究者を横で見ていた研究者たちは,生き残るためソ連共産党の指導方針に迎合するのであった。ソ連の狂気が全ての学問に影響を与え,学問の良心を失わせていった。