アゼルバイジャンの近代文学史 民族文化の覚醒

トルコマンチャーイ条約 (Turkmanchay, 1828)により帝政ロシアとイランの間でアラス(Araz)河が国境と定められた。これ以後アゼルバイジャン帝政ロシアとイランに南北二分化されていくが、これは文化面にも大きな影響を与えることになる。北アゼルバイジャン帝政ロシア支配下に入ると、トビリシ(Tbilisi)にコーカサス総督府が置かれ、ロシア語に通じた現地人の行政官や通訳官を登用するようになった。彼らが知識層を形成するようになって、彼らを通じてロシア文化やロシア文学アゼルバイジャンに影響を及ぼすようになった。
アーフンドザーデ (Mirza Fathali Ahundzade, 1812-1878)は、通訳官としてロシア語に堪能で西欧文学(とくにフランス文学)やロシア文学に造詣が深かった。彼はモリエールを見習った喜劇や戯曲作品を著して近代演劇の創始し、アゼルバイジャン語のラテン文字表記を提案するなど文化や文学の近代化に大きな役割を果たした。アーフンドザーデが導入した演劇は、ヴァジロフ (Najaf Bey Vazirov, 1854-1926)、ハグヴェルディエフ (Abdurrahman Haqverdiev, 1870-1933)がさらに発展させた。ザルダビ (Hasan Bey Zardabi, 1832-1907)は1875年に新聞「エキンジ (Ekinci, 農民)」を創刊した。この頃の文学の特徴はヨーロッパ的な啓蒙主義・合理主義・教養を志向し、文学の使用言語としてペルシア語からアゼルバイジャン語へ移行しつつあった。近代文学は、社会統合を阻害させていた、シーア派スンナ派の対立を弱めるため世俗主義的な傾向もあった。
サービル (Mirza Sabir, 1862-1911)は「諷刺詩人」として知られている。彼の詩集『ホプホプナーメ(Hophopname)』は今でも版を重ねて人々に愛読されている。19世紀末から20世紀初めにサッハト(Sahhat)、ガニザーデ(Qanizade)などの作家たちとの交流を通じて創作に磨きをかけた。ロシア革命(1905-1907)も彼の諷刺や清新な詩作に影響を及ぼした。帝政ロシア支配下、彼の諷刺詩は検閲をくぐり抜けて掲載され、民衆に新鮮な刺激を与えて共感を呼び起こした。サービルが諷刺詩をアゼルバイジャン文学の一つのジャンルに引き上げた功績は大きい。
 
 ロシア革命(1905-1907)、イラン立憲革命(1906-1911)、青年トルコ人革命 (1908)という3つの革命が文芸思潮や社会情勢に大きな影響を及ぼしている。ロシア革命(1905-1907)期のアゼルバイジャンでは、「イルシャド(Irshad)」、「ハヤト(Hayat)」など現地語による新聞発行が許可された。新聞にはロシア以外のオスマン帝国情勢など国際情勢が掲載され、ニュースを通じてロシア帝国内外の社会情勢が伝わるようになった。検閲が少し緩んだこともあって、ジャーナリズムが都市住民を中心に影響を与えた。グルザーデ (Camal Memmed Quruzade, 1866-1932)は、有名な諷刺雑誌『モッラー・ナスレッディン (Molla Nasreddin)』を創刊し、諷刺文学と風刺画を通じて社会に影響を及ぼした。1905年以後の文学では、アゼルバイジャン語の言語純化が大きなテーマであり、これにはオスマントルコ語が影響を与えた。トルコ系諸民族の連帯というパントルコ主義も文芸思潮のテーマの一つであった。ヒュセインザーデ (Ali Bey Huseinzade, 1864-1940)はパントルコ主義の代弁者とも言え、文芸誌『フユザト (Fuyuzat,豊かさ)』を創刊してパントルコ主義の文芸思潮を知識人に鼓吹した。
 1917年のロシア革命によりコーカサスでも独立運動が起き、1918年にアゼルバイジャン民主共和国が独立した。その前の1905年からアゼルバイジャンの知識人の創作活動は高まっていた。独立により検閲のない自由な文学活動が盛んになると思われたが、独立は23ヶ月しか続かなかった。1920年ソビエト政権が樹立されと、文学活動にも制限が次第に加えられるようになった。ラスルザーデ (M. E. Rasulzade) のようにトルコへ亡命した者による文学活動が国外で行われていたが、本国では亡命作家の著書輸入禁止もあって一般の人が読むことを禁止されていた。亡命者文学は、1986年以降のグラスノスチ(情報公開)まで長い間アゼルバイジャンでは読むことのできない幻の文学であった。
 1920年以後のソビエト政権下では、ラテン文字導入や義務教育の普及により、識字率が向上して文学書の読書層が拡大している。1930年代のスターリンの粛正により、ジャーヴィド (H. Javid)、ムサイェフ(Q. Musayev)、シャフバジ (T. Shahbaji)などアゼルバイジャン作家同盟の著名な作家たちが犠牲となった。粛正された作家の多くはアゼルバイジャンの知識人であり、これら作家の喪失はアゼルバイジャン文学にとって大きな損失であり文学活動を停滞させることとなった。それ以後、社会主義リアリズム文学は、社会規範の強制や政治への絶対的な服従により、作家たちの芸術的な才能を萎縮させてしまい、アゼルバイジャン文学を教条主義的な文学にしてしまった。ヴルグン (S. Vurgun)、ジャバルリ (J. Shabarli)、エッフェンディエフ (I. Effendiyev)などは制約された環境下にありながらも民族文学作家として活躍した作家たちもいたが、アゼルバイジャン作家同盟所属の多くの作家たちは共産党に奉仕させられる教条的・迎合的な文学作品を書いた。ソ連時代の新聞や文学作品は検閲を通らなければならず、当局の意に反するような作品は出版されることはなかった。
 1986年代以降のゴルバチョフが推進したペレストロイカを支えたグラスノスチ(情報公開)により、発禁され封印されていた作家の作品が公開された出版されるようになった。グラスノスチソ連国外との交流増加も刺激となって、新聞・文芸誌が多数発刊され、文学活動も盛んになった。
1991年のソ連崩壊によりアゼルバイジャンは独立を回復したが、その後の経済的な低迷や社会的混乱もあって文学作品の出版は低迷したが、2000年代になると石油収入の増加もあって社会が安定し始めると、サービル、ハジュバヨフなどアゼルバイジャンの名著が再版されている。政府が科学アカデミーや作家同盟での文学研究を支援し、作家たちが詩集や文学書を出版するなど、アゼルバイジャンにおいて文学活動がさかんになりつつある。<これは、以前にあるところで書いたものを多少修正した>