日土協会編 『日土土日大辞典』(1936年)


日土協会編『日土土日大辞典』(1936年、定価10円)
ケマル・アタテュルクは、1923年にトルコ共和国が成立して以来、さまざまな分野で大きな変革を実施していた。オスマン帝国がスルタンの為の国家であったのとは異なり、彼はトルコ国民の幸せを考えて反発覚悟でさまざまな政策を実行した。
1928(昭和3)年にケマル・アタテュルクが指導した文字革命が実施された。これにより、アラビア文字で表記したオスマントルコ語と決別し、トルコ語はローマ字で表記されることとなった。文字革命から約80年が経過した現在では、アラビア語文字表記のオスマントルコ語が読めるのは、大学でオスマントルコ語の訓練を受けた人だけ、一般のトルコ人は全く読むことができない。
トルコの文字革命が起きた8年後の1936(昭和11)年、日本でローマ字表記トルコ語の日土協会編『日土土日大辞典』が出版されている。トルコ日本大使館で一等通訳官を勤めた内藤智秀(のち聖心女子大学教授)が編集を行った。1936(昭和11)年にローマ字表記のトルコ語辞典が出版されたことは驚くべきことである。世界的にみてトルコ語対訳辞典としては相当に早い。『日土土日大辞典』は先駆的な業績である。編集作業は、文字改革後の早い段階で作業を開始していたのであろう。このような作業を開始させるだけのエネルギーと資金が日土協会にあったことは間違いない。
いまトルコ語を学習する人がよく利用する辞典は、竹内和夫著『トルコ語辞典』(大学書林)である。これは1989(平成元)年に出版され、版を重ねている。日土協会編の辞典が出版されてから、半世紀余り後である。
『日土土日大辞典』はトルコ語の見出し語が約13,000語で大辞典ではない。そして、語義の説明も簡単である。戦後、著名なトルコ語学者(故人)がこの辞典を相当に批判したそうである。確かに、言語学の見地から批判したのかもしれない。それは純粋学問として正しい態度であろう。しかし、これを編纂した努力についても評価すべきではないかと思う。この著名な学者は、トルコ語の文法書も辞典も残すことはなかった。彼のように実力ある研究者は、社会一般のために貢献しようという発想は乏しい。象牙の塔の研究者として、よくある姿かもしれないが、それでは学問の裾野は一向に広がってはいかない。
この辞典は、このような批判などによる先入観から評判がよくなかった。この辞典は利用されず、竹内の辞典が出版される半世紀の間、トルコ語を勉強するのに、トルコ語・英語辞典などを引かさてていた。
この辞典にとって不運だったことは、トルコ語の文字改革と並行して、言語改革も進行していたことであった。1920年から30、40年代へとトルコ語の語彙が変化している。言語改革によりアラビア語・ペルシア語起源の単語がトルコ言語協会やトルコ歴史協会の専門家が創造した新語に代わっていった。このようなトルコ語の変化には対応していないため、戦後顧みられなかった。
改訂や増補されていたならば、早い段階でトルコ語のいい辞書ができていたかもしれない。しかし、そのような作業を引き受ける団体や組織を束ねる人物はでてこなかった。竹内和夫教授個人の辞典が出版されるまで長い時間がかかっている。竹内著のトルコ語辞典にお世話になっている人は多いが、辞典編纂への評価はもっと高くてもいいはずだ。この辞典は現代では役割を終えているが、1920、30年代のトルコの新聞を読む際には、意外に使えることが分かった。
戦後長い間、トルコに対する関心は低く、トルコ語の辞典や文法書への需要が小さかった。1980年代以降、トルコ航空の日本就航など日本・トルコの交流が飛躍的に拡大した。いまでは、多くのトルコ語会話集、文法書が出版されている。交流を深めるためにも、文法書、会話書、辞典などの工具類が必要であことを考えると、忘れられた日土協会編『日土土日大辞典』の功績を再評価してもいいのではないかと思う。