東京回教印刷所

代々木上原のモスクの隣にある建物の中に「回教印刷所(Matbaa-i Islamiye)」があった。いまでも建物の中に戦前に使われた活版印刷機がホコリをかぶって残されている。コンピュータのDTP印刷の時代となって、活字を拾い組版をつくって印刷するという活版印刷はいまや消えようとしている。昭和戦前期、「回教印刷所」でアラビア文字活字による活版印刷が行われ、クルアーンコーラン)、ヒジュラ暦タタール語の教科書や雑誌などが印刷されていた。これらの印刷物は在日イスラム教徒(主にタタール人)向けに販売された。
この印刷所で使われたアラビア文字活字は、トルコ共和国からもたらされたものであった。1928年、トルコでは文字改革が実施され、アラビア文字表記からラテン文字表記に移行した。アラビア文字はありあらゆる場面での使用が禁止された。使われなくなったアラビア文字活字が日本に輸入された。東京回教徒団長ムハンマド・ガブデュルハイ・クルバンガリー(1892−1972年)が活字輸入に尽力した。彼はロシア革命の避難民で、東京にてイマームを務めていた。トルコからの活字を輸入するのに、八田嘉明(1879-1964)満鉄副総裁(鉄道大臣、逓信大臣など歴任)や7代目・森村市左衛門が資金を提供している。
回教印刷所は、アラビア文字活字によるタタール語の『新日本通報(ヤンガ・ヤポン・ムフビレ “Yanga Yapon Möxbire”)』という定期刊行物を発行していた。極東・インド・アフガニスタン・トルコなど33カ国に配布された。海外配布されていることから、この雑誌出版の費用は陸軍省などの機密費が出ていたのかも知れない。
この雑誌はトルコ系のタタール語で出版され、日本の社会・文化・経済などに関する記事が多く掲載されていていた。しかし、使用言語がアラビア語ではなく、中東イスラム世界(当時、「回教圏」と呼称されていた)に対する日本の情報発信として、どれだけの効果があったかは疑問が残る。 この雑誌がアラビア語ではなく、読者が少ないとしても日本の情報を、イスラム世界を対象に対して、継続的に発信した点は評価されてもいいであろう。
戦前期、アラビア文字による出版活動が行われたが、これに関わった在日タタール人たちが戦後米国、オーストラリア、トルコへ移住してしまうと途絶した。中東イスラム世界との交流が盛んになっていている現在でも、アラビア語出版物は非常に少ない。
1938(昭和13)年から、日本におけるイスラム熱というような、イスラムに対する関心が高まっている。その背後には、対回教徒政策(対イスラム政策)があった。外務省後援で『日本 其の産業と文化』という日本紹介の多数の写真を掲載したグラフ誌が6号まで発刊されている。アラビア語、マレー語、トルコ語で日本の紹介をしている。国策に従っていたとは言え、イスラムに対する情報発信に関して、真剣だったことは間違いない。
インターネットが発達した日本が中東イスラム世界に向けて、アラビア語による日本の情報発信がほとんど行われていない。「日本人は情報発信を得意としていない」とは言ってはいられない。普通の日本を知りたがっている中東イスラム世界の人々がいる。「日本の情報発信は重要だが、では何を発信しようか?」と議論するのもいいが、アラビア語、ペルシア語、トルコ語インドネシア語によって、小さなことでも日本から直接発信すれば、イスラム世界からの反響は思っている以上に大きいはずだ。いまやインターネットは英語圏の人々だけのものではなくなっていることは誰でも知っているのに、日本では日本語と英語以外の言語で発信しているサイトは非常に少ない。