昭和天皇の和歌山県行幸と土耳古軍艦殉難碑 (1)

昨年、関西の友人たちに誘われて南紀白浜に出かけた。南紀白浜は、関西からは高速道路や特急で出かけるには遠くはないが、東京からは陸路(鉄道でも車でも)遠い場所である。飛行機で行くのが一番便利と思い、羽田からJAL機で向かったが、当日あいにく台風通過後で強風という悪条件に見舞われ、南紀白浜空港に着陸できず、関西空港に着陸した。そこから特急で南紀白浜に向かった。やはり、東京から南紀白浜は遠いと実感してしまった。
南紀白浜まで来た機会を利用して、オスマン帝國海軍軍軍艦「エルトゥールル号」の遭難地点と南方熊楠記念館を訪問した。「エルトゥールル号」の遭難地点は串本町紀伊大島樫野岬にあって、南紀白浜から串本まで地図で見ると、直線距離は約80キロではあるが、道路は海岸線に沿って遠く、2時間ぐらいかかった。ここまで時間がかかると、東京から串本を訪問する観光客は少ない。
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul)が和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件を言う。この事件では、日本側の救援活動が行われ、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。
昭和天皇和歌山県行幸博物学者・南方熊楠の一期一会の邂逅は、南方関係の書籍によく言及されている。南紀白浜や樫野岬などに1931(昭和6年)の昭和天皇行幸記念碑が見ることができた。昭和天皇和歌山県行幸は、明治以来天皇行幸として初めてのものであって、それ以前は中世に上皇が熊野詣ぐらいしかなかった。
昭和6年はいま以上に東京から南紀白浜に向かうのは大変であった。昭和天皇は関西での海軍観艦式への参加途中に和歌山県に立ち寄るというのもであった。戦艦長門と供奉艦巡洋艦那智南紀白浜や串本に立ち寄った。戦艦長門連合艦隊の旗艦で長い間国民の間で帝国海軍を代表する戦艦であった。戦艦大和や武蔵が戦後よく話題になるが、第2次大戦中は軍事機密で当時は知られることはなかった。巡洋艦那智の名前は紀州那智から取られており、数多く巡洋艦から那智が選ばれたのも和歌山県民への配慮であったかもしれない。
明治以来、最初の和歌山県行幸であり、和歌山県知事は『和歌山県行幸記録』という書籍を刊行している。南紀和歌山県民の歓迎の様子が分かる。この『和歌山県行幸記録』に中に、昭和天皇土耳古軍艦殉難碑訪問が記されている。
日本・トルコ関係史では、天皇エルトゥールル号殉難碑訪問は知られているが、その様子については知られておらず、原文を一部抜粋する。ただ、その原文はカタカナ漢字まじり文で読みにくいので、ひらがな漢字まじり文に改めて紹介する(続く)。