大谷光瑞とトルコ

大谷光瑞(1876−1948)は,1914年に大谷家が抱えていた巨額の負債整理および教団の疑獄事件のため浄土真宗本願寺派第22世法主と伯爵を辞している。宗門という枠が取れてから,よりスケールの大きな活動を海外でしている。大谷光瑞という人物は島国の日本人のスケールをはるかに超えた巨人であった。だから,凡人の我々は光瑞を理解することが出来なく,彼の業績をいまでも過小評価しているように思える。彼の業績に関して,トルコでの活動も全く顧みられることはなかった。
トルコは,第1次世界大戦敗戦後に英仏伊希列強により,分割支配され植民地にされそうになった。それに対して,ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)将軍の指導もとトルコの民衆は独立戦争に立ち上がり,1923年に最終的にトルコ共和国として独立を達成した。
大谷光瑞は,そのような新生トルコ共和国と日本の連携の重要性を考えたのか,彼の弟子たちをトルコに派遣している。1928(昭和3)年頃,トルコの繊維産業の中心地であるブルサの日本・トルコ合弁の紡績工場が設立させている。「京都出身の10名以上の日本人指導員の努力の甲斐もなく,またアタテュルク大統領が2回も視察に来たという名誉に浴しながらも,約4年間操業ののち破産し,日本人指導員も四散してしまった」(松谷浩尚『日本とトルコ』,中東調査会,43頁)と書かれているように,大谷光瑞のトルコでの活動は失敗に終わってしまったと一般的に理解されている。日本側にブルサでの工場に関する記録が全くない。このように理解されても仕方がないかもしれない。
水野美奈子・龍谷大学教授のグループがブルサでトルコ・日本合弁工場の調査を行っている。水野教授によると,トルコ側の合弁先の子孫はいまでもブルサの有力な企業家で,日本・トルコ合弁に関する記録を整理しきちんと保存しているとのことであった。トルコ側も日本側からのアプローチをずっと待っていたそうです。先入観で史料は何もないと思っていたのは日本側だけで,トルコ側にはブルサの工場史料は残っていた。
いずれにせよ,戦前期の日本・トルコ関係史に大谷光瑞のブルサ工場のことが加わるであろう。大谷光瑞のトルコでの活動がより正確に明らかになる日は近い。
大谷光瑞の弟子に上村辰己という人物がいて,彼は『土耳古革命秘史』という草稿を残しているらしいが,残念ながらどこかに埋もれてしまっている。