クリミア・タタール人の強制移住追悼記念日

1944年5月18日、第2次世界大戦中のソ連は、対独協力の利敵行為の可能性ありとして、クリミア半島に生活していたクリミア・タタール人全員の18万人を中央アジアやシベリアに強制移住した。スターリンは1937年には極東の朝鮮民族中央アジア強制移住させたが、同じようにクリミア・タタール人全員をクリミア半島から追放した。移動は家畜同然に貨物列車に乗せら移動させられた。移動中や移住先で食糧も十分に与えられず、劣悪な環境から多くのタタール人が死亡した。タタール人がクリミア半島にいなくなると、ロシア人やウクライナ人が移住し、タタール人の墓や歴史的な建築物などが破壊され、タタール文化が抹消された。

現在クリミア半島の人口は210万であるが、タタール人の人口はその12%で約25万ある。この66年間でクリミア人は18万から25万に回復した。

タタール人たちはスターリン死後の1950年からに中央アジアからクリミアに戻るが、この帰還はソ連時代違法なものであった。しかし、戻ってもかつての住宅や土地にはロシア人やウクライナ人が占拠していて、まともな生活ができなかった。

1991年のソ連崩壊により、クリミア半島ウクライナの一部として独立した。1991年にクリミア・タタール人たちはクリミア帰還の正式な許可をウクライナから得るのであった。なんと、遅いことであろうか。ソ連が崩壊し、その継承国家であるロシアは何の謝罪もない。

先週、親露派と言われるウクライナ大統領ヤヌコヴィチは、適正な規模で強制移住66周年記念開催を認めると発言した。昨日、5月18日、クリミア半島各地でクリミア・タタール人たちは強制移住追悼66周年記念の式典を開催した。この式典は1993年以降毎年実施されている。

スターリンの恐怖政治は自国の少数民族の安寧など全く考慮しない、エゴイズムの政治であった。その犠牲者はユーラシア各地に多くいて、傷跡はいまでも癒えることがない。