タシケントとメスフ人

数年前,ウズベキスタンタシケントに短期滞在したとき,メスフ人の運転手と偶然知り合った。メスフ(メスヘティア・トルコ)人とは,オスマン帝国が16−17世紀にグルジア南部のトルコ国境に近いメスヘティア地方を支配していた時代にイスラム化したグルジア人などをさす。第2次世界大戦中の1944年,スターリンはメスフ人に対独協力の利敵民族とのレッテルを貼って中央アジア強制移住させた。同時期,同じ理由でクリミア・タタール人チェチェン人,カルミュック(モンゴル)人も強制移住している。

メスフ人は着の身着のままで貨物列車に載せられ,車中は家畜のように劣悪で移動中に多くの人が死亡した。中央アジアでも劣悪な環境で生活したため,多くの人命が失われた。ヒトラーユダヤ人のホロコーストのように,スターリンも民族絶滅を行おうとしていた。スターリンは,本名ヨシフ・ジュガシヴィリというグルジア人でコーカサスの諸民族について,モスクワのロシア人共産党員よりも熟知していた。モスクワのロシア人幹部なら,メスフ人の存在にも気づかなかっただろう。スターリンがメスフ人を強制移住の対象にしたのは,何か個人的な恨みでもあるのだろうか。これについては永遠の謎である。

1989年,ウズベク共和国のフェルガナ地方でウズベク人がメスフ人を大規模に襲撃する《フェルガナ事件》が発生した。事件後,大量のメスフ人難民がソ連国内に逃れた。その数は7万4000人と言われている。グルジアは彼らの受け入れに反対したので,メスフ人の祖国グルジアには帰還できなかった。1989年の《フェルガナ事件》はソ連末期の中央アジアで起きた事件であるため,その真相や原因について,いまでも不明である。

《フェルガナ事件》により,現在ウズベキスタンに残っているメスフ人は非常に少ない。たまたま一人のメスフ人と知り合ったが,彼の家族以外に数えるほどしかタシケントに残っていないとのことであった。メスフ人と知って,彼に母語で話してもらったが,彼の話す言葉を聞きながら,トルコ共和国トルコ語に近いと思った。しかも古風なトルコ語であった。メスフ人は元もとグルジアにいて,アゼルバイジャンに地理的に近かったので,アゼルバイジャン語に近いのかと思っていたが,彼の言葉を聞きながら,アゼルバイジャン語よりもトルコ語の方に近いことが分かった。メスフ人はオスマン帝国時代にイスラム化していることから,トルコ人との接触が多かったのであろう。一人のメスフ人でメスフ人全体を想像するのは危険だが,中央アジアでメスフ人と会話できたことは面白い思い出となっている。