アゼルバイジャン語とペルシア語

アゼルバイジャン共和国のアゼリー人たちは,会話で数字の80を“həştad”(ハシュタード)とよく言っている。この単語はペルシア語である。公文書,新聞,書籍では,数字80はトルコ系の“səksən”(サクサン)が文字言語として使われている。アゼルバイジャンでは歴史的に知識人などがペルシア語を使ってきたが,帝政ロシアの南下により,19世紀前半に北アゼルバイジャンがロシア帝國の支配に組み込まれると,ロシア語は支配階級や官僚(通訳官)を通じて学ばれるようになった。初等教育マドラサで行われ,相変わらずアラビア語やペルシア語が教えられ,アゼルバイジャン語は教えられていなかった。

19世紀後半になって,帝政ロシアの支配が強化されると,ロシア語が知識人の言語となっていくが,ロシア語は西欧の思想や文学を学ぶ手段となっている。アゼルバイジャン知識人のロシア語習得がロシアを通じて,西欧思想と接近するようになる。まだ,アゼルバイジャンでは高等教育が整備されていなかったこともあり,ペルシア語はまだ外国語というより,アゼリー人の文化語であった。

それが,20世紀になると,アゼルバイジャン初等教育中等教育,高等教育が整備され,ロシア語とアゼルバイジャン語が使われ,教育の場でペルシア語が教えられなくなると,ペルシア語は急速に使われなくなった。これによって,イランのアゼルバイジャン人とは文化面で懸隔が生じていくようになった。

アゼルバイジャンでは,急速に使われなくなったペルシア語ではあるが,数詞のような日常使う言葉は口語として生き残っている。トルコ共和国トルコ語もかつてはアラブ語やペルシア語を多く使っていたが,言語改革で排除していった。このため,口語でペルシア語起源の単語が日常生活で頻繁に使われる単語は限られている。トルコ語のように言語改革が行われなかったアゼルバイジャン語でも,その言語変化はこの100年間で緩慢ではあるが書き言葉で起きている。