ナリマン・ナリマノフの死


“Azərbaycan Xalq Cümhuriyyəti Ensiklopediyası”(『アゼルバイジャン民共和国百科事典』,2巻,バクー,2005年)が出版されている。日本では《アゼルバイジャン民主共和国》として知られている。アゼルバイジャン民共和国は,1918年年5月28日から1920年4月20日まで存在した共和国。バクーでは,この共和国の歴史を明らかにするために百科事典が出版された。トルコ共和国を除いて,中央アジアなどトルコ系諸共和国では,アゼルバイジャンだけが出版活動が盛んになっている。

この辞典には,この人民共和国が崩壊した後も,同時時代に活躍して人物が掲載されている。ナリマン・ナリマノフ(1870年4月14日,トビリシ生−1925年3月19日,モスクワ没)が載っている。アゼルバイジャン人民コミサール幹部会議長の立場でロシア人,アルメニア人に対して,アゼルバイジャン人の地位向上と擁護に努めている。1923年,ロシア共産党中央委員会委員候補にも選出されている。

1925年,スターリンに呼ばれてモスクワに出かけるが,心臓麻痺で急逝してしまう。彼が死去してから,アゼルバイジャン人の立場が弱くなっていく。このことから,アゼルバイジャン人たちは,彼の死を暗殺だと信じる人が多い。

百科事典では,彼のモスクワでの死去について記載されていないが,彼の妻と息子がクレムリンに埋葬された彼に墓地の前に立つ写真が掲載されている。これについての説明もない。

この百科事典は,アゼルバイジャン民共和国に関係した人物を網羅し,20世紀初頭のアゼルバイジャンを知る上で多くの情報を提供している。ナリマノフのモスクワでの死について言及していない一方で,この時代には直接関係のない,故ハイダル・アリエフ前アゼルバイジャン大統領やイルハン・アリエフ現大統領について詳細な記述(賞賛)があるなど,時代は変わったが,ソ連時代の記述の仕方を思い出してしまった。