羅紗売りのタタール人

流通の発達した現在では,行商という言葉は死語になっている。農村部で各家庭が自動車を持ち,スーパーやホームセンターに出かけ気軽に買い物にでかけている。昭和30年代までは今のように流通が発達しておらず,行商人がいろいろな品物を携えて戸別訪問しながら商売をしていた。そういった姿は首都圏からは見かけなくなって久しい。

かつて,外国人が行商人となって全国津々浦々を歩き回っていた時代があった。彼らは,ロシア革命の亡命者で,トルコ系のタタール人とよばれる人たちであった。昭和初期にまだ洋服が簡単に手に入らない時代,洋服生地や既製服を売り歩いていた。戦前の農村部で外国人を見かけることはなく,外国人の行商人が玄関に現れると,「留守です」と言って断ろうとした。まだ日本語がたどたどしかったタタール人たちは,「ルスではありません。トルコです」と話しかけたそうです。「ルス」はトルコ語タタール語でロシア人を意味していた。このような笑い話が在日タタール人の間で伝わっている。

タタール人たちは「羅紗売りのタタール人,トルコ人」として次第に知られるようになった。彼らは実直な商売の姿から,各地で信用を得るようなり,お得意さんを獲得していった。商売では実直でなければならなかった。何の後ろ盾もなく,無国籍の彼らは真剣に働き日銭を稼ぎ,東京,神戸,名古屋などにすむ家族を養わなければならなかった。市井にすむタタール人たちと一般庶民との関係は良好で,タタール人がロシア革命の亡命者であることに同情していた。今は亡きロイ・ジェームズ(彼もタタール人)が白人の顔で東京下町言葉を話したも下町で育ったからであった。

羅紗売りのタタール人たちの多くは,1950年代以降家族と一緒にトルコに移住していった。日本に残った数少ないタタール人も戦後社会が安定するにつれ,別の職業に転じていった。そのようなタタール人は日活や東映の映画に不良外人,悪役や軍人の役でスクリーンに登場している。