大島直政  『ケマル・パシャ伝』(新潮社)


ケマル・パシャ伝 (新潮選書)

ケマル・パシャ伝 (新潮選書)

故大島直政(1942-1995)氏は,トルコに関する多くの書籍を残している。トルコに関することをまだまだ書いてもらいたかったが,残念ながら50代で病没された。『ケマル・パシャ伝』は版を重ねたが,著者の死亡により絶版となっている。古本屋で見かけるので,入手は難しくないであろう。
トルコ初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯が要領よくまとめられている。著者がトルコに留学していた頃,トルコの独立戦争に参加した兵士がまだ生きていた。それら名もない市民たちから,トルコがいかに独立を勝ち取ったかを聞いている。いまではこういう聞き取りは不可能であり,庶民の生の声を聞いていたことに価値がある。トルコでは彼を激賞していて,客観的・中立的にに描くのが難しいが,大島は中立的・客観的に彼の生涯を書こうと努力している。
1923年のトルコが独立しいるが,その前の独立戦争第一次世界大戦オスマン帝国の敗戦と欧州列強の占領に反対する武力闘争から始まっている。それを指揮したのがムスタファ・ケマル将軍であった。彼のような強靱な意志を貫き通す人物は,日本からはでないであろう。このとき,トルコが勝利していなかったら,トルコは英・仏・伊・希によって分割され,トルコ人の国家はアナトリア内部の小さな国となっていただろう。日露戦争で日本はアジアなどの非白人に与えた影響は大きかったが,ムスタファ・ケマル将軍は中東の希望の星となった。エジプトなど英仏の植民地支配にあった中東の人々は,生まれてくる子供にケマルという名前をつけたという。
欧州列強のトルコでも敗北は,20世紀が欧州列強の思い通りならない,時代が始まっていること,新たに植民地を作るのが不可能な時代となったことを示した。7つの海を支配した大英帝国も斜陽になりつつあった。トルコとの戦いで単独では戦えず,英連邦のオーストラリア,ニュージーランド軍を投入している。1920年代の大英帝国はかつての栄光を失いつつあって,トルコの戦いでの敗北は,その後英国が軍事力で威嚇する余力がなく,砲艦外交も時代遅れになっていた。
ムスタファ・ケマル将軍が欧州の勢力の侵略を食い止め,欧州列強の野望を実力でたたきつぶした。自ら指導者となって国家からイスラム色を脱色する世俗主義(セキュラリズム)を推進し,トルコをイスラーム老帝国から近代国民国家として再生させた。そして,彼は新生トルコ共和国の大統領として,わずか15年の統治においてトルコに,文化革命,産業革命などさまざまな革命を先導した。ただ,彼はたまるストレスを酒で発散した。しかし,これが彼の寿命を縮めてしまった。1938年に病没したとき,トルコ国民は彼の死に慟哭したが,彼の革命も道半ばであった。このため,その後のトルコの発展には紆余曲折が続いている。歴史にもしはないが,彼の寿命があと10年続いていたら,独裁者の末期がいつも悲劇に終わるが,トルコの内政・外交はどうなっていたのであろうか。
ムスタファ・ケマル将軍が陣頭指揮したガリポリの戦いの戦場跡や博物館を見学したが,この戦いが激戦であったことを実感した。この戦いに動員されたオーストラリア人,ニュージーランド人は大英帝国からの自治権獲得を担保に闘ったのであろうが,その犠牲と代償は余りにも大きかった。戦没したトルコ兵士を埋葬する墓地はきれいに整備されていた。戦死した兵士の墓碑銘を見ながら,20代の若い兵士が多かった。トルコも帝国主義の野望の前に犠牲がいかに大きかったを知ることができた。
トルコでは彼に関する書籍が多数出版されてる。トルコの書籍は,彼への賞賛が多く,彼を客観的に知りのは難しい。この大島直政の『ケマル・パシャ伝』とAndrew Mangoの大冊Ataturk(英語)を併せて読めば,アタテュルクの全体像が理解できる。