ケマル・アタテュルクと高松宮宣仁親王

アンカラのアタテュルク廟を訪問するとき,その見学コースとして付属博物館を見学するであろう。この博物館はムスタファ・ケマル・アタテュルクの偉業をトルコの国民に伝える場所となっている。アタテュルクが面談した要人たちの写真が掲げられ,要人が贈呈した贈り物が展示されている。それらの写真の一枚に故高松宮殿下の御写真がある。宮様は海軍通常礼装の軍服姿である。
高松宮御夫妻は1931(昭和6)年にトルコを訪問し,アタテュルク大統領と面談している。宮様は大統領に白鞘の日本刀を贈呈した。その日本刀は博物館に展示されている。白鞘の表面に本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」が毛筆で記されているが,年月が経過し,かすかに読み取れる状態となってしまっている。
ケマル・アタテュルク高松宮歓迎会を催している。その内容が外務省外交文書に残されている。それによると,アタテュルクは大統領就任後,外国の要人との会談では,通訳を介し,外国語を話すことはなかった。彼が外国語が出来なかった訳ではなく、オスマン帝国陸軍士官学校でフランス語を学び話すことができた。元首であるから、公的場面では敢えて外国語を使わなかったのであろう。歓迎会では,若き日本のプリンスに好意を示したのか,フランス語で話しかけたそうである。これは異例のことであると書かれている。
ムスタファ・ケマルは,トルコの発展に明治維新を参考としたと言われている。彼が日本語を学んだなどと言う人がいるが,これは全く事実には基づいてはいない。日露戦争に勝利した日本に尊敬の念があったかもしれない。遠い日出づる日本から若きプリンスのトルコ訪問に対して,彼が好意を示したのも当然かもしれない。
宮様のトルコ訪問の頃,日本とトルコの関係は貿易を通じて深まっていたが,1938年アタテュルクが病没すると,イスメット・イノニュが第2代大統領に就任する。両国の関係でトルコは必ずしも友好的ではなくなっている。欧州での国際情勢が影響しているにせよ,日本に対して必ずしも好意を示していないのは,イノニュが砲兵将校の生粋の軍人であって,アタテュルクに比べると、対日理解が浅かった違いがあるのかもしれない。