芦田均著『君府海峡通航制度史論』

トルコに関して忘れられた名著が存在する。戦後首相を務めた芦田均(1887-1959年)は、外交官として約4年間をトルコで過ごしている。トルコ滞在中に彼の子供が亡くなるという悲しいこともあったが、ボスポラス・ダーダネルス両海峡に関する研究を博士論文に纏め上げた。母校の東京帝國大学に提出し、1929(昭和4)年に法学博士の学位が授与された。この博士論文は『君府海峡通航制度史論』(巌松堂、1930年5月)として出版されている。この重厚な書籍は、神田の古本屋でも最近見かけないが、たまに店頭にあっても高値がつけられている。
『君府海峡通航制度史論』には、欧米の文献、特にフランス語が堪能であった芦田は、フランス語文献を熟読し、その成果が多く取り入れられている。著者は自著を『海峡の争奪を中心として見た近東問題』と説明している。トルコの海峡地帯再武装を認め、海峡通航制度を改定した、1936年に締結された《モントルー条約》は含まれていない。しかし、トルコ海峡の通航問題を概観するには、現在でも本書を凌駕する研究書は現れていない。芦田の外交官の立場から、そうさせたのかもしれないが、筆致は極めて穏当で、彼の独自の見解は余り出てはいない。「第10章 日露戦争と海峡通行」という章があるが、日本が海峡を監視していたと言われることなど、日本に関することは全く言及していない。 
芦田は多くの著作を残している。トルコ在勤前のロシア在勤について、『革命前後のロシア』(文藝春秋社、1955年)を残している。これは今読んでも革命前後のロシアの支配者の雰囲気を知るのに参考になる。また,ロシア美人の踊り子が登場するなど,フランス文学に通じていた芦田の文才は精彩に富んでいる。
ロシア勤務と比べると、トルコについては、『バルカン』(岩波新書)でケマル・アタテュルクやトルコを言及しているに過ぎない。専門書『君府海峡通航制度史論』を除いて、トルコ関係の単著を残していない。芦田にとって、前任地ロシアに比べると、イスタンブルでの外交官生活はそれほど刺激的なものではなかったのかもしれない。
芦田が外交生活を送った大日本帝國大使館、戦後は在イスタンブール総領事館は、オスマン帝国銀行総裁の邸宅で趣ある建物であった。現在の総領事館はモダンな高層ビルの一角にある。財務省は使わなくなった建物(国有財産)の売却を外務省に勧告した。現地のトルコ人たちから、この建物を日本文化センターとして活用すべきとの声が上がり、日本の政治家にも陳情が行われた。しかし、外務省は芦田が執務した建物を売却した。
このように由緒ある建築物を日本文化センターのように活用できなかったのも、日本外交の稚拙さや日本文化の発信の重要性への無理解によるものであろう。日本とは対照的に、英国、仏蘭西、独逸などは重厚な建物、歴史ある建築物を総領事館や文化センターとして活用し、各国の情報発信の場とし、トルコ人の関心を惹きつけている。日本人として情けなさを感じているのは私だけではないと思う。